大学・大学院を総括する

人生語り

こんにちは。かけるです。

ついに7年間の大学・大学院生活が終わりを迎えようとしています。

大学でどんなことをしたのか。どんな経験が良かったのか。どんな困難があったのか。

自分が感じたこと・経験したことを「等身大で」、大学を「総括」しておこうと思います。思い返すとやはり、大学生活は初めて尽くしであり、最初から出来たことはほぼありませんでした。この記事ではあくまで等身大を意識していて、その時思ったことや記憶に残ったことを中心に書いています。長いです。気を付けて下さい。

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大学でやっておいて良かったこと・学業系

学部時代

学部移行という第二の受験

当時18歳だった鈴木少年は前期試験で北大への入学を決めることができました。北大の1年生は総合教育部に配属されるので、1年次の成績をもとに移行先の学部学科が決まります。かねてから農学を学びたいと思っていたものの、農学部の移行点は全体的に高いので、勉強にはそこそこに力を入れました。特に、高校で履修していなかった生物のテストには苦しみました。2学期の生物2の試験は寝坊までしたので、多分本当に生物には縁が無いのでしょう。(結果的には追試をしてもらったのでOKでした。交渉してみるものです。)

生物環境工学科への進学

そして無事、農学部の中でも生物環境工学科に配属され、農学・工学・情報学といったエンジニアリング的な勉強をしました。実は生物環境工学科は第3希望で、生物資源科学科、生物機能化学科の移行点には足りませんでした。しかし、生物環境工学科で勉強するにつれて、そもそも化学はあまり得意ではなく、生物に至っては履修すらしてなかったため、生物資源や生物機能の学科に進んでいたら全く別の未来が待っていたんだろうな、と回想します。所属研究室で活躍しているメンバーの中には高校で物理を履修していなかった人も多くいるため、高校の履修内容と大学以降の専攻内容は別につながっていなくても良いのだな、とつくづく実感します。

シンガポール・プログラム

特に、国際経験という枠組みで、4年次に参加したシンガポールプログラムは心に残っています。7月の第一週は日本人学生がシンガポールに行き、第三週には逆にシンガポール人学生が日本に来るという交換型プログラムです。なんといっても、学校がお金を出してくれて、ANAの国際線に乗れる、NUS(シンガポール国立大学)の寮に泊まれる、シンガポール人の友達ができる、というのが激アツです。募集時の選考はGPA一発勝負だったので、そこそこ良い成績を取っておいて本当に良かったと思いました。また、これを機に、純粋な農学研究よりは、海外のいろいろな土地に行ってみたいという気持ちが強くなりました。これがのちに、国際食資源学院を選択する所以となります。

卒論を通じて感じた研究の難しさ

卒論では「UAVを用いたうどんこ病の早期検出に関する研究」というタイトルで研究をまとめました。UAVとはドローン。うどんこ病はかぼちゃの葉に出る病気のことです。つまり、「ドローンで撮った画像から病気を早めに見つけよう!」という研究です。「せっかくやるからにはちゃんとやりたい」と思っていた私は、卒論もある程度はちゃんとやろうと思っていました。

しかし、研究って本当に難しいのです。大学受験までの勉強は、範囲が決まっていることを頑張って覚える勉強で、比較的得意でした。大学3年次くらいまでの勉強も、記述式やレポート、計算が多いとはいえ、授業や講義、問題集を解けばしっかり点数が取れるもの。ただ、研究はそうはいかないのです。

まず、言われること・指示がない(研究室特有の事情?)。授業だったら教室に行って90分座っていれば得られるものは多少はありますが、研究ではやるべきこと・何をするか、から考えなければならない。指導教員も手探りのため、とりあえずやってみるところから始まる。

そして、終わりが無い。テストだったらテストが終わって60点以上取ればとりあえず単位にはなりますよね。でも、研究って終わりも自分で決める必要があります。初心者の自分にとっては、今自分が取り組んでいることが良い終着点なのか、もっと進めた方が良いのか、判断ができない。プレゼンにまとめることや発表することは比較的得意だったので、卒論が崩壊するということは免れましたが、研究内容に意義があったか、新規性・独自性があったかと言われれば、NOです。自分の力で研究の型(緒論→方法→…)に落とし込むのが精一杯でした。

ただ、面白いと感じたことも事実です。他人と同じことをやっていても面白くないと考える研究者の志向性、疑ったことに対してとことん突き詰める性分などです。以前からディープラーニング(深層学習)に興味を持っていたものの、卒論ではその実装までやることができなかったため、技術に対する理解をもっと深めたいと思い、大学院進学を早々に決めました。

大学院時代

GFRへの進学

シンガポールプログラムの経験から、もう少し長期で、もう少し深く海外滞在をしたいと思うようになった私は、経済的な負担が少なくデンマーク・ミャンマーに行け、農業工学以外にも視点を広げられる国際食資源学院(GFR)を選びました。国際食資源学院では、自分の専攻分野であるスマート農業だけではなく、Production・Enviroment・Governanceの分野の講義を受講することができます。それによって、「多角的な視点から食資源問題を考えられるようになる人材を育成する」ことを目的としています。

このように、いろいろごちゃまぜになっている大学院を経験して重要だと感じたことは「立場を取ることの重要性」です。デンマークやミャンマーで実習を経験したり、講義を受講するにつれて、「~~すべきである」「~~が重要である」と結論づけることが多くありました。しかし、すべき論で物事が少しでも進展することは無く、学生という立場で実習に行くだけでは現地での課題解決に何ら貢献できないことへの歯がゆさを感じるようになりました。ミャンマーでは、小さな農村で展開されている農業の機械化に関する調査を行いましたが、あくまでそれは自分たちの知的好奇心を満たすため、勉強のための行ったことで、取材をした現地農民に対してポジティブなことができた訳ではないと思います。実習ベースではなく、研究テーマとして専攻する、仕事として関わる、など深い関わりが求められているのだと思います。

では、実習での経験が無意味なのかと言われれば、そうでもないと思います。実習中だけに焦点を当てて課題解決に貢献することは難しいけれど、

・個人旅行では絶対行くことが出来ない場所に行ける。

・共通の難しさを協力して乗り越えることで仲良くなる。

・いつか、何かしようと思った時に助けてくれる仲間ができる。

というふうに、長期的に見て種まきをしている要素があるのだと思います。

修士における研究テーマ

修士課程では一人一つテーマをもって研究をすることになります。私は、「UAVを用いたテンサイの初期生育マッピングアルゴリズムの開発」をテーマに研究をしました。卒論に続いて、使う機材はUAV=ドローン。対象作物はかぼちゃからテンサイに変更。つまり、「ドローンで撮った画像からテンサイの初期生育をマップ化しよう!」ということです。一見、簡単そうに見えますが、ドローンで撮った画像をいろいろいじくって、生育情報を抽出するシステムをプログラミングする点がミソです。加えて、抽象的な概念をどんどん具体化していく必要もあります。初期生育って何?作物の大きさなのか?植生指数なのか?ということをどんどん詰めていきます。「生育情報を抽出するシステム」が市販されているわけではないので、自分でモデルを構築してマップ化に成功させなければいけません。もはや研究というより製品開発です。

卒論で研究の難しさを認識したのですが、やっぱり修士になっても研究は難しいです。それまで思っていたことが実は違った、ということもありました。いくつか例を挙げます。

・学部自体のレポートレベルでは実験で上手くいかなければ上手く行かなかった理由を考察すれば良いと思っていましたが、修士は2年間と長いので、考察した後は振り出しに戻ります。上手くいくまでこの作業を繰り返し続ける。悪い結果が出て考察しただけ、では終われない。

・研究テーマは指導教員がよく考えていて与えてくれるものだと考えていました。しかし、おおまかなテーマは考えてくれるが、意義や手法を磨いていくのは学生側の仕事。指導教員はあくまで「関数」であり、インプットを与えないとアウトプットが出てこないため、何でも良いからインプットを作ってアウトプット=文句・批判・アドバイスをもらうのが学生の仕事。

修士での研究は研究室の環境、指導教員とのマッチングによる部分が大きいので、全ての人に当てはまるとは言えません。比較的放任系な環境で時間を過ごしたため、自分で何かしないと卒業できない、と思い始めたのが大きいと思います。

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大学でやっておいて良かったこと・インターン系

何度もぐろばるでは言っていますが、修士1年から2年にかけての1年間は休学していました。休学でやってことは大きく分けて、

・国連広報センター(UNIC)でのインターン:インターン卒業記事

・inaho株式会社でのインターン:inaho株式会社のHP

です。

UNICでのインターン

UNICでは「国連に対する関心と理解を深め、その活動に対する最大限の支援を得るため、メディアや教育機関へのアウトリーチ活動を行うとともに、政府、市民社会、民間セクターとのパートナーシップを築き、主にウェブサイトで情報を発信し、国連の取り組む課題について正確かつ総合的な情報提供」に関する業務に従事しました。

学生ではなくインターンということで、新たな困難にぶち当たったと振り返ります。いくつか挙げてみたいと思います。

コロナの出現期とインターン開始がバッティング。84日の勤務のうち83日がテレワークで、1日しか対面で合っていない同僚・上司との意思疎通には正直苦労した。特に、昼休みや就業後にできるはずだった雑談の時間が全くなく、雑談をするためには予定を合わせる必要がある、という元も子もない状況になってしまった。コロナを契機として国連に対する風当たりが激しいということもあり、業務をしていると何だか気分が暗くなってきてしまうので、リフレッシュの時間が重要だと認識。

・GFRで英語に触れていたとはいえ、いきなり英語を使った業務は難しい。インターンの同僚は【既に】留学を経験していた人たちばかりだったが、私は(当時は)【これから】留学をする予定の人だったため、「おれ場違い?」と感じることも多かった。幸いなことにクビになることはなかったため、良かった。

いろいろ苦しんだお陰で、学ぶことも非常に多かったです。

・インターンをするまで、国連は魔法の組織だと思っていたが、意外と地道な活動をしないと支持を得られないのが難しい。国連が言っていることだから政府を含めて誰でも従う訳ではない。どちらかと言うと、世界で最も弱い立場に置かれている人たちの声を大きく代弁する組織。

・広報という仕事は、組織でやっていることをアピールしたり、組織としての考えを正式に公表するための仕事。そのため、何か自分でソリューションを作り出したり、製品をつくったり、制度設計をしてみたり、といった具体的な解決策を作れる仕事の方が面白いと感じた

inahoでのインターン

次に、inahoでのインターンでは、農業用ロボットの現地運用に携わりました。もともと研究を通じて、スマート農業技術の現場実装へ疑問を持っていたため、実際に研究開発中のロボットの現場実証に携わる、というど真ん中の業務に従事しました。スマート農業に関することだけではなく、スタートアップならではの意思決定など、とても勉強になる仕事で、未熟な自分を受け入れてくれたのにはとても感謝しています。感じたことをいくつか記しておきます。

夜勤は辛い。インターン中の2か月間の業務は夜勤が大部分だったが、仕事は夜、休みは昼、というサイクルは体内時計が大変なことになる。そして、ニキビが増える。

・決まった仕事、自分が担当すべき仕事はそこそこある中で、そして2か月という短い期間内で、自分を認めてもらうための立ち回りに苦労した。いや、もしかしたら「自分を認めてもらう」とか気にする以前に、「これやってみました~」って感じで面白いことをやって、みんなに見せてみる的な行動の方が良かったのかもしれない。

・スタートアップ、面白い。組織っぽいけど、組織っぽくなくて、面白そう・わくわくを体現する推進力がとてもある。

メディアでも多く取り上げられ、オランダへも進出したとても面白い企業です。陰ながら応援しています。

大学でやっておいて良かったこと・趣味サークル系

自転車旅行

高校生の時からマウンテンバイクをやっていて、競技よりはツーリングの方が楽しいと思っていたので、北大サイクリングクラブ(HUCC)に入りました。入部に際しては、HUCCと他のどこかの部活にも行った気がしますが、あまり迷いは無かったです。(もう少し別の団体の新歓にいってごっつぁんしてもらえばよかった、というのは別の話。)当たり前ですが冬の北海道は雪が降り、11月〜3月までの活動は基本的に自転車を使わないものになるので、自転車で活動できるのは実質4月〜10月の半年間だけになります。なんだ、どこにも行けないように見えますが、毎週末土日を使ったキャンプツーリング、夏季休暇を使ったほぼ1か月間の合宿のおかげで、本当に北海道の隅々を訪れることができました。Google mapでお気に入り登録したピンのせいで北海道が埋もれてしまうほどです。もちろん、引退後のドライブで行った箇所も含んでいるので全て自転車で訪れた訳ではありませんが、北海道に小さい頃から住んでいる人より様々な場所に行くことができた経験は本当に宝物です。

最近はもっぱらドライブですが、大学初期に自転車を使って旅行をしておいて本当に良かったと思っています。なぜかと言うと、自転車は車に比べて圧倒的にスピードが遅いので、記憶に残りやすいのです。自転車旅行はだいたい20㎞(1時間程度?)に1回は休憩を取るのですが、だいたいその間隔でコンビニがあったりします。コンビニすら無いような場所では、路上とか集落の中で休憩することもあります。汚い恰好をして休憩している自転車乗りはやはり珍しいので、周囲の人が話かけてくれることが多いです。自分が自転車乗りだったから、と言ってすき家をおごってくれたり、話を聞いてくれたからと言ってお金をくれるおばさん、「この辺の道は大変だろう」という話を延々とループしてくるおじさんなど、思い出せばキリがありません。

そして、今では想像・経験できないようなクレイジーな経験が出来たことです。炎天下の中190㎞走ったり、食べ過ぎて自転車に乗りながら吐いたり、根室のコンビニの裏でテントを張ったり、数えきれない野宿をしたり…。今では「内定先に迷惑がかかるから」と躊躇いそうなことでもできたのは貴重だったと思います。お陰で、ドミトリーで寝れるだけで幸せだと感じるようになりました。ただ、やっている行為自体はDQNなので社会的に認められるものではないという意見もありそうですが、許してくれる寛容な社会であって欲しいです。

ただ、このような経験ができない環境になりつつあるのも事実です。昔行っていた場所、自転車旅行者向けのライダーハウスや合宿で使った公民館などが実は閉鎖していた、という報告を聞くようになりました。何より、40数名で自転車で移動し続ける合宿自体がコロナ時代にふさわしくないことが最も痛いですね。私も次の4月から8年目(自分が1年目だった時の8年目を想像すると相当遠い)になるため、口出しすると老害と言われそうですが、せめて、私が大学3年次に連絡をとった美幌町役場の人のように、規則はありつつも何とか彼らに機会を与えられないだろうか、と奔走できる人になっていたいものです。

海外旅行

大学前半のテーマが自転車だとすれば、大学後半のテーマは海外です。高2のカナダ・ホームステイ以来の海外旅行だったインド、「研究が全然始まらないから」と言って突然行ったタイ、前述したシンガポール・マレーシア、JEJU airのセールで安く行けた韓国、今となってはなぜ行こうと思ったか分からないシルクロード、GFRの実習で行ったデンマーク・ミャンマーなどなど、(行くはずだったオランダ)などなど、海外にハマり始めました。

インドは特に強烈でした。「インドに行くと価値観変わるよ」とよく言われますが、(別にそれだけで価値観変わらねえよ」と思いつつも)、非日常の連続でした。Booking.comで予約していた宿に当日宿泊を断られたり、インドの列車に乗ったり、バイクに3人乗りしたり、何度もぼったくられそうになったり、ラクダに乗ったり、後半数日は体調不良でダウンしていたり…。ここに書き出すと平凡に見えるので、記憶をここに貼り付けたいところですが、そんなこともできないので、ぜひ行ってみて下さい。

また、シルクロード一人旅も自分の中では本当にチャレンジでした。訪れた国は中国、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタンの4か国ですが、ロシアがウクライナに侵攻している今日現在を考えると、日本人一人でこれらの国々に行くのはいつ捕まってもおかしくなかったと思います。実際、中国のウルムチに行くための高鉄(中国の新幹線)に乗っていたところパスポートをチェックされスマホに変な機器を繋がれたり、ウルムチからアルマトイへの地獄の長距離バスの道中、中国の国境付近で武警(普通の警察と何が違うのかは分からない)の軍事訓練?が始まったり、アルマトイで乗った窓が割れたタクシーでぼったくられそうになったり、と危ない経験を数多くしましたが、何とかなるものです。一人旅を経て、自分で何とかできるように頑張る習慣はつきましたが、一人旅は当分しなくて良いやと思うようになりました。

大学でやっておいて良かったこと・アルバイト系

教育系:塾講師、採点バイト、自治体のオンライン学習サポート、●●のオンライン学習支援

小学生の頃から誰かにモノを教えることが好きで、大学生になったら塾講師など教育系のバイトをしてみたいと思っていました。塾講師を始めた大学1年生からオンライン学習指導に携わった修士2年まで、ずっと教育系のバイトをしていました。

しかし、大学に入って初めて続いた長期的なバイトである塾講師は2年次の終わりに退職しました。振り返ると、これは大きな転機で大きな決断だと思います。「教える」という作業自体はとても好きなのですが、やはり中学生が高校受験を迎える2〜3月は繁忙期になります。同時に、大学生にとっては春休みになり、数週間の海外旅行や自転車旅行に行きたくなるものです。なかなかそこで折り合いが付かず、やめることにしました。生徒に何かを教える、という仕事のやりがいと、長期的に旅行がしたい、というプライベートを天秤にかけて、後者を取った訳です。おかげで、大学3年次と4年次にはインドとシルクロードの旅行に行けたので、辞めたことを後悔しているわけではありませんが、あの時教えた生徒が今どうしているのかとても気になるところです。

間は空きましたが、修士2年次にはとある自治体のオンライン自習室のチューターと、とある教育系サービスのオンラインコーチング業務を1年間しました。どちらも時間を固定される訳ではないので、修士の研究との両立もしやすかったです。塾講師だと講義中の時間しかアプローチ出来ない(あとは宿題を出すか、自習室に来させるか)のに対して、オンラインであれば日頃の学習指導までアプローチできるので、バイトをやってみて意義は大きいと思いました。どんな時でもメッセージは飛んでくるので、休暇は取れるものの24時間365日逃げられないのはネックですが、自分の工夫の仕方によってはうまくこなせる業務だと自分に合っていると思いました。

コールセンター

単発バイトを除いて、一番続かなかったバイトです。顔が見えない相手と喋らなければならないことが一番精神的につらいです。あくまでこちらはアルバイトなので、研修を経たとは言え商品や手続きに関する知識は少ない中で、相手に怒鳴られたりすると、エスカレーション(上司を呼んで対応方法を聞くこと)するしかできない。自分の力で何か出来れば良いのですが、自分には話すことしかできないので、より辛い。唯一良かったことは、電話に臆することなく出れる/電話をかけれるようになったこと。ただ、あの時の忌々しい着信音は今でも頭に残っています。

単発系:パン工場、クリーニング工場、清掃作業、百円ショップの倉庫、イベント設営、イベント運営スタッフ、プロ野球運営、引っ越し

ここには書き切れないくらい色々なことをしました。人生で初めてのアルバイトは、大学1年生で行ったパン工場の夜勤でした。パンの袋の中にある匂いが工場には充満しており、朝方帰宅する時には、市販のパンを買うことが出来なくなります。作業も至って単純で、時間の進みが本当に遅いのです。働く人たちも声を掛け合って支え合う訳でもなく、夜勤なのでイライラしており、雰囲気は最悪。具体的な記憶が残っていないくらい辛かった、人生初めてのバイトでした。

その後、ある長期のアルバイトを辞めてから次の仕事が見つかるまでは間が空いてしまうので、単発・派遣バイトで凌ぐ時期もありました。そこで会うのは、大学内にいるだけでは絶対出会うことのない人たちばかり。「最近の若者は与えられた量以上に頑張ってしまうから、与えられた量をこなせば良いんだよ」と教えてくれたおじさん。昼休みに席を分けてくれたおばさん。その人たちが今も元気で過ごしていることを願うばかりです。

大学に入ったからこそ、今から考えれば貴重な経験になったと思っています。ただ、作業をしている最中はだいたい辛いです。

地元の中小企業

大学3年生に始めてから休学期間をはさんで修士2年のおわりまで5年間続けたバイトです。人生で最も続いたバイトと言えるでしょう。作業内容としては、公共事業に関するデータ入力や確認作業・GISデータ作成作業なので、いわゆる単純作業、めちゃくちゃ面白い作業ではありません。では、なぜそんな長く続けられたのかを考えてみると、

・大学後半〜大学院時代に主として取り組む研究とバイトを両立するためには、どうしても融通の効くバイトである必要がある。その点、このバイトはシフトも自由に決められ、休暇にも応じてくれる点が有難かった。(残りの作業量は社員さんが片づけてくれていたと思うので、感謝しかありません。)

・入社当時は「北大生でも採ってみるか」というノリで募集が始まったバイトで、何か決まったフローがあるわけではなく、作り上げていく感覚が楽しかったかもしれない。

という2点が大きいと思います。こう考えると、仕事を選ぶうえでは扱うテーマが重要というよりかは、仕事のソフト面が合っているのかどうか、が重要なんだと思い始めました。このような美味しいバイトは北大のアルバイト掲示板に掲載されていることが多いので、要チェックです。

研究補助

大学2年〜3年次くらいにやっていました。これも北大のアルバイト掲示板に載っていたものです。データ入力が主になるので、作業としてはあまり面白味のあるものではないですが、

・研究室配属の前に研究室に入って作業できる。

・先生と繋がりができる。

・ある程度出勤していれば、シフトが自由である。

という点が良かったのだと思います。

北海道に住む、ということ

高校3年生の時に北海道大学の受験(=札幌で一人で暮らす)を決断した当時の私にとっては、北海道とは、大きくて、雪が降って、食べ物がおいしいイメージでした。そのイメージは全く間違っておらず、7年間でむしろその魅力に魅了されました。しかしながら、北海道は明らかに人間が住むには条件が不利な地であると思います。世界的に見ればもっと条件が悪い土地があるのは勿論分かっていますが、日本国内で見れば不利な環境です。北海道を自転車で1周した高校時代の友人もまとめていましたが、北海道は自然からの圧力がすさまじいそうです。

長期休暇を利用して北海道以外(関東・中部・沖縄)も自転車で走りましたが、都府県と北海道は明らかに地形や都市構造が違うと感じました。

・都府県のまちの造りは、まちとまちが滑らかにつながっている感じ、家が全くない区域はあまりなく山中くらい。

・北海道のまちの造りは、まちとまちが自然で分断されている感じ。辛うじて国道でつながっている感じ。

私は農学部出身なので農地の配置にも目が行くのですが、都府県の農地は集落の中に混ざっているという感じなのに対し、北海道は集落ゾーンと農地ゾーンが分かれている感じです。北海道全体に占める面積では、この集落ゾーンを農地ゾーンや自然ゾーンが圧倒しているのが北海道です。

この投稿の直前、私は九州旅行から北海道に帰る際に、2回の飛行機欠航を経験しました。水曜日には飛行機は動いたものの、除雪作業が追い付かず今度はJRが動かないという事態に遭遇しました。午後10時半には鉄道が動き始める予定でしたが、除雪作業が思ったより難航したうえ、雪が多すぎて除雪作業機が故障したことも要因らしく、結果的に動き始めたのは午前3時でした。また、2021年〜2022年の冬は特に積雪が多く、生活道路の除排雪も追いついていない状況でした。このように、雪は北海道にとって、スキーや雪まつりなど好影響をもたらす一方で、生活に多大な影響を及ぼす要因となるのです。

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さて、2021年度の札幌市における除雪費用の総額は300億円を超えたそうです。また、JR北海道の除雪費用は50億円だそうです。この多くは除雪作業員の人件費や除雪機に費やされていると思いますが、特に除雪作業員による人力除雪の多くは夜間に行われ、作業も肉体作業であることが多く、非常に過酷だと思います。JR北海道にとっても、いつまでも降る雪のせいで鉄道を再開できないでいると、収入はないのに除雪コストだけはかかり続ける状況に陥ります。つまり、北海道で暮らす(=人間が生活を営む)ということは、インフラ的により多くのコストがかかるということなのです。

ただ、ここで言いたいことは、不利な環境だからこそ厳しい自然に挑むロマンがあるのではないか、ということです。北海道は日本の食糧庫とも言われており日本の食料安全保障に大きく貢献しているうえ、人々が北海道に抱くイメージも魅力的な一方で、生活するのは多くのコストがかかる土地です。以上のような、公共性と効率性のバトルはこれまでの大学生活で本当に何度も見てきました。エッセンシャル・ワーカーの方が相対的に所得が小さいこともその一つです。何か、いまの社会システムを修正する必要があるのではないか、これが現時点で私が持っている問題意識です。

まとめ

大学・大学院で過ごした7年間は、様々な人の支援を借りながら、生活を成り立たせるまで、人生で初めてだらけの経験であったと言えます。高校生だった自分と比べて大きく成長したと自信を持って言えますが、この前受験に急ぐ高校生を見たときに意外と自分はそこまで変わっていないのではないか、とも思えました。同時に、いろいろな失敗をしてきたし判断を間違えたこともあったので、本当に本当に本当に本当に価値のある数年間だったのか、と問われれば自信を持ってYESと言えないかもしれませんし、YESと言えないことに悩んでしまうかもしれません。しかし、人生で達成すべきことが「生き切ること」だけであり、数年後、友人とあの日々が楽しかったと言えるのであれば、もうそれは万歳なのです。次の7年間も元気に生きていて、この記事に書いた以上のことを誇れるようになりたいですね。

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