はじめに
こんにちは。たかみつです。
僕は、大学院の博士課程に在籍しています。
突然ですが、博士号を取った「博士」のことを、国際的には「Ph.D.」と呼ぶのをご存知でしょうか。
「Ph.D.」を聞いたことがある人も、その語源については、もしかしたら知らないかもしれません。
「Ph.D.」は、実は、“Doctor of Philosophy”が語源だと言われています。
“Philosophy”つまり「哲学」。
博士は、哲学をなんらかの形で理解している(会得している)人物でなければならないのかもしれません。
(※ギリシャ語の原義では、”philosophy”は、”love of wisdom”という、より広い意味で使われているそうです。)
他の研究室の先生とお話ししたとき、研究者として身を立てるには、この博士課程の間に、「研究に関する哲学」と「教育に関する哲学」を、色んな研究者を見て身につけたほうがいいよと言われました。
修士課程までは「学ばせてもらっている」ような状態だったので、自然と、指導教員の方針にほとんど全て従っていましたが、今後、自立した研究者になるためには、指導教員の良いところ・悪いところから学び、他の研究者の意見も取り入れながら、自分のオリジナリティを作っていくべきなのだと思います。
ということで、たまに哲学について、まとめてみようという企画を始めます。
題して、たかみつのDoctor of Philosophy第1弾としまして、今回は「人生観」について、僕が大学3年生の時に書いた文章を掲載しようと思います。
自分の人生とは何なのか?自分が「生きる意味」は何なのか?
21歳でそんなことを考えていたみたいです(笑)
しかしマジメな話、自分が生きる意味を一度自分で認識しておくと、それは、迷ったときに進みたいと思う方向を決めるコンパスや、辛いことがあった時に背中を押してくれるエンジンのようなものになると思います。
以前、にしこが自分自身を愛することがSDGsにもつながること“LOVE MYSELF”とSDGsを紹介してくれました。
自分が生きる意味を考えるのもその一つで、自分についてより理解する(=より愛する)ことなのかなと思います。
以下は、僕が所属していたサイクリングクラブの文集用に書いた文章ですが、今でも大事にしたい哲学も含まれていたので、残そうと思いました。では、しばしお付き合いください。
大学3年生の時に書いたエッセイ
「生ききる」
皆さんは自分が何のために生きているか考えたことはありますか?急にこんなことを言い始めましたが、別に僕は病んでいるわけではありません。
というのも、最近、福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」という本を読んで、生物とは教科書に書いてあるように、自己により代謝を行い、増殖するということのほかに、「流動的である」ものである、という考え方を得たのですが、ここで自分のなかでふつふつと新しい疑問が生じました。そもそも、なぜ生物というものが出現したのでしょうか?そんなこと考えたって仕方ないでしょ!と思うかもしれませんが、少々僕の思考ワールドにお付き合いください。
ここで僕が問いたいのは、「宇宙レベルまたは惑星レベルで考える、生物が存在することの意義」です。なぜ代謝を行い増殖する物体が現れたのでしょうか。地球に炭素、酸素があり水が液体の状態であったから、という直接の原因はわかります。条件がそろっていたから偶然現れたともいえるでしょう。しかし、最初に現れた生物はなぜ自らの子孫(分身)を残し、すなわちなぜ生物が生物であろうとしたのかという究極の原因がわからないのです。炭素も酸素も水も、岩石や海水のままではダメだったのでしょうか。
一つ考えられるのは、生物を作り出すことは、地球にとってもメリットがあったのではないかということです。約46億年前にできたころの地球は、二酸化炭素で包まれており、とても熱く不安定な状態であったといわれています。そこで、ある生物には二酸化炭素を酸素へと変換させ、ある生物には酸素をエネルギーとして用いてもらい(このほかにもいろいろな反応系がある)、エネルギーを局在させず循環させることで地球の安定化を補助してもらったのではないかという考え方です。増殖してどんどん地球のエネルギーを奪い生きていく生物が増えることで地球は安定化していったと考えることができます。しかし、この説はあくまでも仮説です。エネルギーは高いところから低いところへと移動し、やがて平衡状態となるので、別に生物を介さなくても地球は勝手に安定化していったものと思われます。
では仮に、生物が地球にとってメリットのあるものであったという説が正しかったとしましょう。僕たちがいま、ここで生きているのはなぜですか?最初の生物から段々環境に適応した生物の遺伝子が受け継がれて今僕たちがいるのはわかります。ですが、たまたまいるのと、絶対いないといけないというのは違います。この広大な宇宙で、この地球上で、ほかでもない「僕」たちが生きているのは何のためなのでしょう。太陽系ができてから130億年、地球ができてから46億年、その地球も、太陽も、あと何億年かしたら爆発してなくなってしまうといいます。人間の一生は長くても約100年です。たった100年で何か宇宙や地球に貢献できるでしょうか。何人かできる人はできると思います。ですが、多くの人の生涯は、宇宙にとってはとてもちっぽけなものであるのです。宇宙的な観点から見たら、人間はタンパク質分子の集合体でしかないでしょう。
最近の研究で、「多宇宙論」というものがあり、僕たちの住んでいるこの広大な宇宙ですらいくつもある宇宙の中の一つだという仮説があるそうです。中には、エントロピー増大の法則が成り立たない宇宙があるそうで、僕たちの宇宙では秩序が乱れていく方向に時間が進みますが、秩序が整っていく方向に時間が進む(僕たちの宇宙の概念で未来から過去に時間が流れる)宇宙があるかもしれないそうです。もうここまできたら訳がわからないですね。そこまで考えると、現在地球上で起こっている国どうしの領土問題などがとても小さなものに思えてきて少し笑えます。地球上でぐらい仲良くしたらいいのになぁと。まあどうしても目先の利益、自分または自分に近しい人に有利になるように生きていきたいという気持ちが先走ってしまうのは人間の性ですね。当たり前のことかもしれません。
ちょっと脱線しましたね。僕たちが生きる意味についての話に戻します。もうそろそろお気づきだと思いますが、はっきり言って、宇宙や地球の利害関係の観点で見ると、僕たちが生きる意味はほぼないです。僕たちは、これまでの様々な出来事の「結果として存在する」ということです。
おいおいおい!そんな悲観的な話するなよと、思いますよね。僕も自分の文章を読み返して精神的にきつくなってきました。任せてください。ここから挽回します。ここからは、僕の現時点での生きることについての考えを語ります。
今、僕たちは、客観的には何のためかはわかりませんが(ここでの客観的とは人間を俯瞰して見ることをいう)、生を受けました。主観的には、意思を持ち、感情を持ち、生きています。特に人間は、幸か不幸か、ほかの生物より知能が発達し、先のことを予測したり、学習することができます。パスカルの「人間は考える葦である」という言葉にあるように、人間は葦などと同様に弱いものですが、考えて行動することによって葦などとは違い困難を乗り越えることができます。なので僕は、人間を人間たらしめるものは、「考えて行動できること」であると考えています。
僕の見る世界と皆さんが見る世界は違います。身長や色覚、視力の微妙な違いなどのファクターもありますが、そんなことよりも、生きている中で得てきた経験などによって見えるものへの感じ方や考え方は違います。ですので、僕の生きる世界は僕のもので、君の生きる世界は君のものなのです。当然ですが生きているだけで勝手に主人公として生きています。ただし、それぞれが主人公でそれぞれの世界にはお互い重なる部分があるのでそこで自分の世界を大事にするのと同様、相手の世界も大事にしていこうということです。
さて、主人公として意思を持って生きているのなら、人間として、「考えて行動すること」をバリバリやってやろうじゃないですか。考えることをめんどくさがり、考えることをやめれば他の生物と同じです。せっかく人間として生まれたのに人間として生きることができていない。これは、とてももったいないことである、ということだけでなく、もはや人間として生きる意味を敢えて自分から放棄しているようなものであると思います。また、そんなに頑張らなくても生きていける環境があるから楽をして生きたい、という人もいると思います。でもそれはずるくないか?というのが僕の考えです。その人が楽をして生きることができるのは、古代から現代までほかのいろいろな人が考えて行動し、どうすれば自分たちのためによりよくできるかを考えて行動してきたからです。今は何もしなくても生きていけるかもしれませんが、その昔は、生きていくことが常に死と隣り合わせであったはずです。そうしたなかで人間は稲作を始め、ついには現代のような文明を作り上げるようになりました。あなたの服は、家は、ご飯は、スマートフォンは、あなた以外の多くの人のたゆまぬ努力により作り上げられてきたものであるのです。だから、「まわさ」ないといけない。その受け継がれてきたバトンをほかの人に、どんな形であれ、まわしていくべきです。そのバトンを止めると、人間が人間ではなくなると思います。
人間として考えて生きること。それは、今となってはただ単に生命活動のためだけのことではないと思います。現代はかなり発展し、様々な職業があり、旅行、料理、スポーツ、芸能、音楽、学問など、人間だからできることは数多くあります。この環境、すなわち人間が人間として生きることができる環境を、できる限り満喫して生きていきたいものです。たしかに、宇宙の中では人間は生きる意味はないのかもしれません。しかし、自分が主人公となり、この生を生きていく限り、「人間としての喜びを感じるために生きる」、それだけで十分、生きる意味なのではないのでしょうか。知りたいことをできるだけ知って、経験したいことをできるだけ経験して、この生を「生ききる」ということが重要になると思います。速く走れるので陸上選手になって世界一になる、旅人と話すのが好きなのでゲストハウスを経営する、農家として食料を供給する、金持ちになりたいので起業する、安定した収入を得て程よく生活したいので企業に就職する。どれも素晴らしい生き方です。大切なのは、自分のやりたいこととできることを照らし合わせて自分の人生を思いっきり生ききることだと思います。自分が自分として生きることを追求することそのものこそ、生きていく意味なのかもしれません。
賛否両論あると思いますが、僕は、チャレンジングな生き方をしたいです。宝くじ一発当ててそのお金で生活するより、保証はないけどやっていてやりがいがあり楽しい人生を歩みたいです。それは研究者になることか、起業することか、発展途上国で学校を作ることか、趣味が充実していることか、何かはわかりませんが、自分にとって刺激的な人生にしたいと思います。これは現時点での思いで、何年後かには社会の荒波にもまれ、また考えが変わっているかもしれませんが、今はそういう考えです。そうやってこの人生を生ききりたい。どうせいつか死ぬなら、知識も、経験もパンパンにこの体に詰め込んで、そして死んでいきたい。生き急いでいるように見えるかもしれませんが、そういうことではなく、どしっと構え、自分のペースでチャレンジングな人生を送りたい、自分の生を生ききりたい、ということです。それが今の思いです。
おわりに
長い文章をそのまま載せちゃったので、読みづらいと思いますし、ほぼ自己満足ですいません(笑)
しかし、僕が本当に言いたいのは、自分の生きる意味を自分で定義しておくことの重要性です。
上に書いてあるように、僕にとって生きる意味は、「考えて生きること」と「次の世代にバトンをまわす」ことであるようです。
皆さんは、自分自身で考えてみて、どうでしょうか?
一度生きる意味を真剣に考えてみると、人生をよりよく生きるヒントが見つかるかもしれません。
ではまた!
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